今日は死ぬのにもってこいの日

http://d.hatena.ne.jp/kazemidori/20031006#p2
http://d.hatena.ne.jp/kazemidori/20031130#p1
のつづきです。

雅風翁さんから,ゲストブックに次の書き込みをいただきました。ありがとうございます。さっそく,柊氏に転送しておきます。


私もこの詩はどこかで以前見たような気がします。とてもいい詩だと思います。
三つの訳の比較ということですが、原詩をどのようにうまく訳しているかということは無視して、三つの訳を独立した日本語詩としてみた場合の感想を書かせていただきます。
私がいちばんいいと思うのは柊作です。
金関作にはちょっと不満があります。それは、冒頭の「もってこい」という表現と、「わたしの畑は、もう耕されることはない。」という一行に、なにかシニカルな視点を感じてしまうからです。「今日は死ぬのにもってこいの日だ」というのが、いくぶん反語的に響くのが嫌なのです。これはほんとうに「いくぶん」のことで、読む人によってはそうは感じないでしょうけれど、私は感じてしまう。人間の生と死を、ほんのちょびっと皮肉っているような感じがしてしまう。
柊作にはそれがない。非常に静謐な境地が描かれている。
ポイントとなる一行は「畑には 最後の鋤を入れ終えてある」でしょう。丸元作にも「私の畑にはもう最後の/鋤を入れ終えた。」とあって、同じことを言っているわけですが、言葉の印象は違ってきます。「入れ終えた」ではなく、「入れ終えてある」とすることで、死を受け入れる準備が「すでに十分整っている」ということがはっきりと示されている。
これは、さらにその二行後に、「こどもたちが 帰ってきている」とあることでいっそう強調されています。
ここの部分、丸元作も金関作も「帰ってきた」となっていますが、死を受け入れる準備が「すでに十分整っている」というのであれば、断然「帰ってきている」とすべきでしょう。
それと細かい点かもしれませんが、柊作の冒頭が、「とてもいい日」と名詞止めになっていることも素晴らしい。他の二つはどちらも冒頭を「・・・日だ」としており、最終行も同様に「・・・日だ」と締めくくっている。しかし柊作は冒頭を名詞止めにしているので、最終行の「とてもいい日だ」の「だ」が効いているのです。「ああ、ほんとうに、今日は死ぬのにとてもいい日だなあ」という感情がとても効果的に表現されているわけです。
また、これも細かいことですが、柊作に句読点がないのがいい。
ということで、私は断然柊作を支持します。
人間は生きていくものであると同時に、死んでいくものでもある。生が死よりも優れているということはない。この詩からは、主人公が人間の生と死をありのままに受け入れ、静かに微笑んでいる様を感じます。それは「諦念」というよりも、人間や世界を優しく肯定するまなざしだと思います。柊作には、この「人間や世界を優しく肯定するまなざし」がとてもよく表現されていて好きです。

現在リンクを貼っていないゲストブックをわざわざ探し出してこの長文。本当にありがとうございます。懐かしいお名前を拝見できたことも嬉しいです。